たかが櫛されど奇し

楓橋 彼岸と此岸

澤乃井・小澤酒造のすぐ前の流れ、多摩川にかかっている吊橋は、楓橋(かえでばし)と呼ばれています。八世紀の中頃に活躍した中国の詩人・張継(ちょうけい)の詩『楓橋夜泊(ふうきょうやはく)』から採った名称です。
ご存じの方も多いでしょう。

月落烏啼霜満天  江楓漁火対愁眠
姑蘇城外寒山寺  夜半鐘声到客船

今回は、この橋で結ばれた南岸(多摩川渓谷・左岸)の北原白秋の歌碑と、北岸(右岸)に建つ大日本寒山寺のお話です。

南岸の、楓橋のたもとには、澤乃井園といって酒蔵見学や渓谷遊歩道散策の方々が、ひと休みなさる小庭があります。

ここはかつて、澤乃井三代前の隠居所があった場所で、二階建の家の前には湧水を利用した蓮池があり、蓮根堀りや芹摘みが出来るなかなか風流なところでした。

私が嫁いだ頃は、すでに建物もなくなっていましたが、戦時中はここに香陽宮様ご一家、そのあとで元日銀総裁ご一家が疎開されたのだそうです。

姑から聞いた事ですが、姑たち夫妻は毎月、一日と十五日には紋付を着て、宮様にご挨拶に伺い、また、総裁ご一家には初孫のご誕生という慶事があったりして、当時はいろいろ大変だった様子です。

その後、四十年ほど前になるのでしょうか、この場所に開いた一坪ばかりの売店に、澤乃井のお酒と酒粕飴などを置いて、私ひとりで、生まれて初めて、「あきない」というものをいたしました。懐かしい、想い出の場所です。

今では売店の位置も大きさも、扱う品も変わりました。息子たちの手で、すっかりリニューアルされています。

北原白秋の歌碑は、この庭の隅にあります。昭和四十二年に建てられました。鉾杉をイメージした石に彫られているのは次ぎの一首です。

西多摩の山の酒屋の鉾杉は
三もと五もと青き鉾杉

白秋が大正十二年、当地を訪れたときに詠んだ歌。その後まとめられた歌集『篁(たかむら)』に収められています。

白秋の華麗な詩風や、生地九州柳川の影響か、南蛮趣味的なところが、私にはちょっとなじまない感じがしていたのですが、与謝野鉄幹・晶子夫妻門下として世に出た実力には、今頃になって傾倒しています。

特に、『篁』の中の『多摩の浅春・造り酒屋の歌』は、奥多摩のひなびた感じが、よく出ていると感銘しますし、あのキラめく豊富な語彙が表には出ず、すんなり読めることに心を打たれます。

造り酒屋の歌
水きよき多摩のみなかみ、南むく山のなぞへ(斜面)、老杉の三鉾五鉾、
常寂び(とこさび)て立てらくがもと、古りし世の家居さながら、
大うから(大家族) 今も居りけり。
西多摩や造酒屋は門櫓いかしく高く、棟さは(たくさん)に倉建て並(な)め 殿づくり、
朝日夕日の押し照るや、八隅かがやく。
八尺(やさか)なす桶のここだく(非常にたくさん)、
新しぼりしたたる袋、庭廣に干しも列(つら)ぬと、
咽喉太(のどぶと)の 老いしかけろ(鶏)も、かうかうとうちふる鶏冠(とさか)、
尾長鳥垂り尾のおごり、
七妻の雌(ななつまのめ)をし引き連れ、七十羽(ななそは)の雛を引き具し、
春浅く閑(しず)かなる陽に、うち羽ぶき、しじ(盛ん)に呼ばひぬ。
ゆゆしくもゆかしきかをり、内外(うちと)にも満ち溢るれば、
ここ過ぐと人は仰ぎ見、道行くと人はかへりみ、むらぎも(心にかかる枕言葉)の
心もしぬに(しみじみ、しきりに)、踏む足のたどきも知らず(たよりなく)、
草まくら、旅のありき(歩み)のたまたまや、我も見ほけて(見とれて)、
見も飽かず眺め入りけり。過ぎがてにいたも酔ひけり。
酒の香も世世に幸はふ、うまし(美しい)国うまし(満ち足りた)この家ぞ、
うべも(まことに)富たる。

反歌
大御代の多摩の酒屋の門櫓(かどやぐら)
酒の香さびて名も古りにけり
西多摩の山の酒屋の鉾杉は
三(み)もと五(いつ)もと青き鉾杉
* 上記()括弧内は筆者

造り酒屋であったという柳川の今はない生家。「トンカジョン」と呼ばれた素封家の息子だった幼年時代。それらを想起し、この陽光を一杯浴びて大勢の男衆が酒を仕込み、栄えている家を見て、白秋は感慨ひとしおのものがあったのだろうと推察されます。

その白秋は昭和十七年に亡くなり、多摩墓地に葬られました。

『造り酒屋の歌』から三十年後、私が嫁いだ頃の酒屋の様子は、白秋が見たものとあまり変わりませんでした。時もゆっくり流れていたのですね。

それでも紅殻塗(べんがらぬり)の門の上にあった小部屋風の空間は、その頃邸内にあった三等郵便局の職員の宿直室になってもいたりしましたが、昭和三十六年、道路の拡幅によって取り除かれ、、一対の門柱だけが残り、今では大型トレーラーが出入りしたりしています。

「大うから」と『造り酒屋の歌』の中で白秋に羨まれた小澤家も、結婚もしないうちに、長男、次男が戦病死。三男も、中学生(現都立立川高校)の時、病死しました。終戦前には、先々代も亡くなり、悲嘆にくれる家になってしまいました。

先代にあたる主人の父と母も、非常な悲しみを乗り越え、家業を守り、末子だった主人(小澤恒夫)と私に次代を託してくれたのです。

私達も、父母の安らかな後生を願い、殆ど夢中で働きました。おかげ様で息子三人、うち・そと合わせて孫九人、やっと、「中うから」くらいの家になることができました。みんな、ひと様のお力だと思います。

さて、ここで楓橋を渡って向こう側へ行きましょう。

かつては小さい村人用だったこの吊橋も、今はなかなか賑やかな橋になって、釣り人は欄干から身を乗り出して魚影を探り、初夏にはバードウオッチングの人が、かわせみや山せみを撮ろうと朝早くからカメラの砲列を敷いています。

橋を渡り切ってすぐに、鐘楼があります。昭和五年、私の生まれた年に造営された寒山寺の麓に建っています。

この寺の由来は、明治十八年、時の書家、田口米舫(べいほう)師が中国に遊学、各地を歴訪中、中国寒山寺より寄託された木像の釈迦仏一体を日本に持ち帰り、日本の中で適地を探索していたところ、この沢井の鵜の瀬渓谷を発見、当時の青梅鉄道の社長、小澤太平の支援によって、沿線の名士、文化人の喜捨を得て建立したというものです。

戦争末期、この鐘は供出され戻って来ませんでしたが、昭和四十年、主人の尽力で新しく鋳造され、昭和四十五年には、鐘楼の格天井に、当時、気鋭の玉堂門下二十四画伯の絵が寄進され、質素な堂宇に、華やかさが添えられました。見どころのひとつと申せましょう。

幸い、寺堂の方は戦中も戦後も無事でした。渓谷を見おろす山腹に建ち、今も香煙が絶える事なく、中国寒山寺の和尚様も二、三年に一度は訪ねられ、丁寧に参拝されています。

住職も不在。霊験あらたかなお札もお守りもありませんが、お釈迦様と直に向き合って、無心に礼拝できるのが清々しく、無宗派なので、どのようなお詣りをなさろうとかまわないのも、本来の仏心に叶うような気がします。

六十年以上も昔、私が卒業した現在の都立武蔵高校の故近藤正平先生は、お酒がお好きで、よくお訪ね下さいましたが、必ず寒山寺に詣でられ、その頃、暗い顔をしていた私に、「鐘の音は、川下の想い人に届くものなんですよ」と言われました。

その後、幾度となく思い出し、鐘をついた事もありました。

 「想い人」。
いい言葉ですね。恋人やら肉親やらの生ぐさい人間関係ではなく、さまざまの出会いの中で、大切だった人、忘れられない人、或いはいつか、巡り会えるかも知れない大好きな人。その人に届くのだと無邪気に思い、鐘をつき、その時々の煩悩を、流し去って来たりもしました。

ブログ上に書き綴る事も、受け止めて下さる方があるからこそ。同じ事なのかも知れません。

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