たかが櫛されど奇し

寒山寺余話

前回に続いて「私の寒山寺」という感じでお話したいと思います。

寒山寺といえば、前出の張継による漢詩『楓橋夜泊(ふうきょうやはく)』で有名なほか、『寒山拾得(かんざん・じっとく)』という題の画によっても、よく知られていますね。

中国はもとより、我が国でも殊に鎌倉期以降の漢画系の人達や、狩野派の画家達によって、たくさん描かれています。

この絵の主人公、寒山と拾得は中国の唐時代の末頃、天台山国清寺に住んでいたという二人の隠者ですが、寒山は経巻を、拾得は箒を持っている図柄が多いようです。経巻と箒の意味はいろいろに解釈できますね。

姑蘇城外・江蘇省蘇州の寒山寺にも居住した二人は、世俗的な名声を求めず(そうしたものは眼中に無く)飄逸な衣服を身にまとい、時には狂人扱いを受けながらも、ひたすら伸びやかに変人ぶりを発揮して、自らの詩情と信条を守りつつ、宗教的な境地を探求した人。

そして或る時、噂を聞いた州の高官が二人を訪ね、寒山を文殊菩薩の化身、拾得を普賢菩薩の化身とあがめて礼拝したところ、二人は山の穴に隠れて見えなくなり、そのあとに三百十四首の詩が残されていた・・・・・それがもとで『寒山詩集』が出来ている・・・・・という話、私は大好きです。

川合玉堂にも、明治から没年まで、『寒山拾得』は何十点もの作品になっていますが、いずれも、弊衣蓬髪ながら、屈託のない笑顔で談笑している図です。菩薩にされたことを笑っているのかしら。

ところで、『楓橋夜泊』ですが、邪馬台国論争のスケールにはとても及びませんが、時々、むし返される論争がありました。

即ち、「月落ち、烏啼いて(カラスナイテ)」は、「月、烏啼に落ち(ウテイニオチ)」が正しい。その根拠は、「烏は夜鳴かない。烏啼山という山がある。」故に「月が烏啼山に沈んで」なのだ、ということで争われたのです。

しかし中国で、「烏は夜啼く」と証明され、また寒山寺周辺に、「烏啼」という山は無いと発表され、一応の決着を見ました。

でも、本当に烏は夜鳴くのでしょうか。私は鳴かないと思うのです。大体、鳥は塒に帰る時は騒々しいものです。眠ってしまえば静かなものです。時々寝ぼけて変な声を出す間抜けな鳥がいることはいますが、この場合は違うでしょう。

作者・張継は「夕方、月が沈む頃、烏が啼いた、その天空には、今、霜がいっぱいになって・・・・・」というふうに、単に日が暮れ始めた頃から夜半に至る迄の時間的経過を詩的に表現したまでと私は思っています。

また、しつこく食い下がる人もいるとみえて、「夜半の鐘声」が気に入らない。「暮六つ」が最後だ。と、ごねた人も、その後、中国では、夜、鐘をつく寺があり、寒山寺もそうなのだ、という事で、これも決着。除夜の鐘の例まで持ち出されましたが、これもきっとこの詩の人気故なのでしょう。

さて、もうひとつ、騒ぎがありました。当時、鎌倉五山の僧の間で盛り上がった異論・論争ですが・・・・・

張継は一人で舟に泊まって惻々として旅愁をかみしめていたのではないのだ。彼女と二人で、寒山寺の鐘声を聞いていたに違いない。というもの。

それに対して、否、「愁眠」とあるから彼女に振られて一人悶々と船中に在ったのだ、と、僧達、教義そっちのけで妄想をたくましゅうしていたとか・・・・・

私は思います。お仲間同士でこんな楽しい議論を闘わせている時、般若湯はさぞかし美味しかったでしょうね、と。

続いて、余談のおまけですが、私は女学生時代、習字の時間に、林先生というおじいさん先生に教えていただきました。いつも叱られていて、「朝ご飯、ちゃんと食べて来たのか?そんな元気のない字を書いて」とか「お前のおじいさんは、字だって上手なんだぞ」と、始終情ない想いをしていたものです。

林先生は、大変小っちゃい方で、黒い裾の方が広がって三角マントみたいに見えるスモックをお召しになり、上唇がとんがったお顔だったので、「キヨちゃん」(フクちゃん漫画)という仇名でした。

ところが或る日、誰かが、「林先生って、あの『お馬の親子』を作詞した人なんですって・・・・・」とご注進。ワイワイガヤガヤの末、本当らしいということになり、先生に「先生ホントですか?」などと失礼な質問をし、先生は、めんどくさそうに、「そうだよ」と答えられました。

女学生達の打って変わった尊敬のまなざしを最後に、私達は昭和飛行機へ学徒動員。多分、非常勤講師だったのでしょう、林先生には、二度とお目にかかった記憶がありません。でも、どうかすると、「いつでも一緒にポックリポックリ歩く」というあの歌が浮かんで来ることがあります。懐かしいですね。

ものの本には『オウマ』文部省唱歌。昭和16年『ウタノホン』(上)作詞者は林柳波。作曲者は松島彝(つね)。と出ています。

前置きが大変長くなりましたが、その林先生に教えていただいたお手本に、『山行(さんこう)』と題する中国の詩人・杜牧(とぼく803~852)の七言絶句がありました。

遠上寒山石径斜   遠く寒山に上れば石径斜なり
白雲生處有人家   白雲の生ずる処人家あり
停車坐愛楓林晩   車を停めて坐ろ(そぞろ)に愛す楓林の晩(くれ)
霜葉紅於二月花   霜葉は二月の花よりも紅なり

その時、林先生が、「二月の花というのは紅梅のことなんだよ」とおっしゃったのが妙に記憶に残っていて、はじめて日本寒山寺を見た時、「あ、この寒山寺のことなんだ」と年代も何も全く違うのに、詩句と風景とが私の想いの中で一致してしまいました。

「遠上寒山石径斜」です。急な斜面の石段を登って寒山寺にお詣りすると・・・・・。霜に当たったために色づいた美しい木の葉が見渡せる・・・・・紅梅より綺麗かも・・・・・。いつか寒山寺のことを書く時、この詩と林先生の話を使わせていただこうと、大事にとっておいたのでした。

しかし、あとになって調べましたら違いました。この詩で言う「寒山」は、寺ではなく、遠い寂しい冬の枯れた山のことであり、「石径」は登りの石段ではなく、小石の多い小道という意味でした。

皆様もおいでになってご覧になれば、すぐにお分かりになると思いますが、日本寒山寺には、見上げると、かなり急な石段があるのです。

ですから私は、一瞬でイメージを結びつけてしまったのです。『山行』の詩と、多摩川渓谷右岸の日本寒山寺とを。

でも、(間違いましたが)『山行』は好きな詩です。さまざまな想い出と共に、これからも私の心の中に、浮かんだり消えたりして行くことでしょう。それにしても、こんなふうに、何やら勉強した筈なのに、思い違いしたまま今に至っている事が、他にもいろいろあるのでしょうね。
八十歳になって、そんな事を考えます。

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